3.11 10年目で思う事
2021/03/12
宮城県沿岸部出身の私にとって3月11日は特別な日です。
東日本大震災から10年が経ち節目と言われた今年の3月11日ですが、当事者にとってはまだまだ悲しみや恐怖が蘇る日です。
11日はNHKのライブで追悼式を見ながら子供達と黙祷をしました。(スウェーデンでは朝6時46分でダンナさんは寝てた…)
黙祷をするのは地震が発生した2時46分だけど、大津波が到達したのはその後30〜50分後。私の故郷・東松島市でも多くの方が巻き込まれて亡くなりました。そしてそこから長年に渡る苦しみが始まりました。私としてはこの黙祷時間は「これから始まったね」と皆さんに語りかける時間で、その後に起こった事を一日中考え遠い故郷に想いを馳せます。
10年前のこの日、私はロンドンに住んでいました。当時7ヶ月だった娘ちゃんと育児休暇中で、4月には娘ちゃんを連れて初めて帰国する予定でした。
宮城県は地震の多い地域で小さな地震は3日に一度は起こるし、津波警報も頻繁に出されるんです(外国に出て他の県の子達と話すまで、日本中こうなんだと思ってたバカな私です)。
地震・津波警報に慣れっ子なだけに、避難せず被害が拡大したわけですが、、、私も大阪の友達が電話してくれてこの大地震の事を教えてくれたにも関わらず、「そのぐらいの震度なら大丈夫、津波なんていつもあるしね」とさほど心配しませんでした。一応、親に電話をしたけど繋がらないのも回線が混んでいるんだな、と解釈。しかしテレビのニュースで宮城県の津波の映像をみて驚愕、やっと事態の深刻さを理解しました。
そこから約1週間、家族はもちろん親戚も友人達もだーーーーれとも連絡が取れず、考える事はおかしなもので「どうやってメチャクチャになった家の物を整理したらいいんだろう?」「災害保険の証書みつかるかな?」といった実務的な事ばかりでした。
同時にインターネット上で必死に情報を探していて、Twitterを始めたのが2011年3月12日。このツイッターが一番情報が早かった!実家上空の航空写真や、実家近辺の水が引いた後の写真も見る事が出来て「きっと生きてる!」と思えました。
私は本当に幸運な事に、家族・親戚・仲の良い友人達は生存していました。実家も破壊されずに済みましたが浸水がひどかったので一階はドロドログチャグチャ、車2台もダメになりました。しかしほんの100メートル先の界隈はめちゃくちゃに破壊されて亡くなった方も多かった中、家が潰されなかったのは奇跡。実家前にある航空自衛隊・松島基地内に建物が多い為そこで津波の勢いが弱まったのが不幸中の幸いだったようです。
私は当日そこにいなかったので体感していませんが、友人達の生々しい経験談を聞くと本当にいかに恐ろしい出来事だったのかを感じます。家が丸ごと流された友人、車で避難中に津波に巻き込まれて必死に木にしがみついて耐えた友人、田畑の中を車で無我夢中に走って津波を振り切った兄(その後車は乗り捨て、歩きながら家に帰れたのは3日後)。
こんなに大規模の災害が実際に自分の生まれ育った町で起こると、それ以前の人生が普通だった事が逆に不思議に思えます。どうやって、普通の生活を当たり前に出来てきたんだろう…。400〜600年に1度という巨大地震、大津波が私の世代で起きるなんて、、。
しかし運良く助かった人達が口を揃えてこう言いますよ。
「生かされたんだから頑張らなくちゃ。亡くなった人の分も!」私はこの日が来るとなんだか遣る瀬無い気持ちになってしまいますが、現地で生き生き頑張ってる人達を考えると「負けちゃいられない!私も生かされた人間の1人、たった一度の人生を貴重に生きるぞ!」と思えます。
今回の10周年にあたり、河北新報社さんが被災地からの感謝の気持ちを動画にまとめました。ポジティブエネルギー溢れているのでぜひご覧ください。
コレ↓は私の町、東松島市です。
特別サイトにはその他14市町からの動画メッセージもあります。
「震災10年の感謝を全国に」
東日本大震災を支えてくださった皆さん、私からもお礼を申し上げます。
地震や天災は防ぎようがありませんが、皆んなが協力したら乗り越えられる!